モラ

モラ夫(妻)、モラ親、モラ上司等、モラ属性の人はおり、その人たちも過去に傷ついていたり痛みがあるからそうする側面は多分にしてあるが、それはあなたが加害を受け続けていい理由には特にならない。
他方、反復・継続的にモラを受ける性質の人はその自罰的傾向によりその環境に居続ける性質であったりもする。つまり性質上かみ合ってしまう。
仏教的な発想になるが、自分が離れることで、その人にそれ以上加害させない(加害をすることは加害者本人をも暗に痛めつける)ことも相手への優しさでもあり、そしてもちろん自分への優しさである。
経験的、感覚的には、モラ加害被害関係にある被害側が加害側を救ってあげるなんてことはほぼ不可能かと思う。
痛みの連鎖をやめること。
他害的であろうが自罰(傷)的であろうが、内在的な痛みはだいたいみんなそれぞれにある。
自分のそこに優しく。

鬼滅の争い論

争いがなぜ激化するかとみていくと、正しさが争いを生むということもそうだけども、より正確には自分が正しいと思うと正しさを通すためなら間違っている相手への配慮や尊重をしなくてよい、乱暴に扱ってもよいというような誤解が生じやすいことにあるのかなと。

そして、片方が無配慮や乱暴にいけば、「乱暴な相手にやり返すのはOK」(ドラマ流行ってる間は倍返しなんですかね)という修正がさらに入りやすいのでお互いに激化していくかと。

漫画とか映画の影響・刷り込みもありそう。少年漫画は特に基本的に正義が悪を暴力で殲滅して正解の平和の世界を実現します。

この点、現在映画爆ヒット中の鬼滅の刃は、暴力で鬼を殺しますけど、鬼の側の鬼となった事情、悲しみや苦しみ、どうして暴力に訴えるようになったかとそれへの癒し、許し、浄化がそれなりの比重をもって描かれます。

このアニメが爆発的ヒットをしているのは、結構後々響いてきそうな気がします。ちなみに作中の、呼吸法でパワーアップするという刷り込みも後々響いてくるかと。全集中の呼吸が何となく示唆していると思われる、今ここのエネルギーはあなどれません。

攻撃的な人、暴れている人は苦しんでいるからこそであり、少なくとも私が関わってきた刑事被告人や非行少年たち、またはそういうのでなくても相手に対して乱暴な態度・暴力的な感情が出る人(出ない人はいないけど)は、みんな苦しみからでした。

私もこれまで人を攻撃してしまったりしそうになるときは、苦しみからですし。わかりやすく外側に暴力として出ない人は、鬱や適応障害、胃潰瘍やある種の癌という形や、又はネット内外の悪口やバッシングというような形で出るのかもしれません。

誰かが攻撃的なときに、ああ苦しんでいるんだなと視点を切り替えると対処は変わります。暴力を甘んじて受けろとかでは全くない(それ自分への暴力)です。暴力自体はその人のためにも、させないことが大事。
”悪をみつけて排除するとよくなる”というのも大概刷り込みであり、悪者の誰かをただバッシングしたり排除するのみではなく、私達にそういう傾向があることを認識した上で、私達みんなが抱える苦しみそれ自体に意識を向けていくといろいろ社会も変わってくるのかなと思います。

さて、映画観に行く暇あるかなー。

誰かを責めることの損得論

紛争や喧嘩につきもの、な責めること。

道徳ではなく損得で考える。

誰かと揉めてる人で相手を責めている人はとにかく苦しそう、
他方、揉めていたとしても相手は相手として、それなら自分は自分でこう動くという人の方が楽そう、また、現実を具体的に動かしていくので望む方向に向かいやすい。
相手を責めだすと大概相手も責め返してくるので責め責め合戦になって解決に向かいにくく、むしろ事態が悪化しやすい。

責められると責め返したくなるのが人情なので、人を責める傾向にある人はつまり責められやすく、よく人と揉めてそういうことに時間とエネルギーを使えば、当然望む現実を創る方にエネルギーを使わないので不満が募りやすい、
で、それを誰か(身近な人でも社会でも陰謀組織とか何でもいいや)のせいにして責め出すので悪循環。誰かではなく自分を責めるのでも同じ。

何か気に入らないことがあったときに、誰かや自らを責めだすとただじめじめグダグダして動きにくい上にとにかく自分が不快。誰かを責めることは自分の中にある何らかの罪悪感や否定したい自己イメージを抑圧していることが多く、
そっちと向き合う方が話が早い。その自己否定や罪悪感が余計だから。責めているとなんとなくその内側の自分の不快感と向き合わなくて楽なような気もするが、実際は向き合わないので不快感がいつまでもじわじわ続く(本当は自分で気づいている)。身体的な健康についてだとさらにわかりやすいが、不快感は単に自分からの何かに気づいてほしいというサインである。

ということで、自分を含め誰かを責めることは自分にとって損。とりあえず気に入らない事態をまあそれも現実として一旦受け容れてそれならそれでどうするか(何もしないを含む)という姿勢の方が得。

ポイントは、何を受け容れないことにしているのか、という自分の中の否定ポイントを見つけてああ否定しているんだなと否定していることを受け容れていくのが第1歩かと思う。

世界はなんとなく投げたものが返ってくるので、責めがほしければ責めればいいし、望むものがあるならそれを自分から投げるのがいいかと。

紛争に呑まれる人と呑まれない人

些細なケンカから裁判沙汰まで、紛争に呑まれていく人は善悪思考の強い人です。
相手が悪く、自分が正しい、その主張を認めさせようとする。

どっちが悪い、正しいの二元論。とはいえ人の数だけ正しさはあり、相手は相手なりに自分が正しいと思っているので正しさと正しさの対立、紛争になります。

善悪のジャッジがなければ構造が異なります。

自分と相手がいて、その間になんらかの問題(感情的なものも現象的なものも)がある。

それをいかに解決するかです。WINーWINの思考ができたり、相手を問題解決に共にあたっている人と見るので相手の協力も得やすい。この場合は上述の紛争と同じ問題があったにしても、紛争にならず、交渉だったり共同作業のようになります。自分には自分の考えや立場や感覚・感情があり、相手にもそれとは異なるそれがある、正しさが人の数だけあることを知っており、相手を尊重できる人にはこれができます。

善悪思考が強い、相手をジャッジするということは自分自身のこともジャッジしているということであり、どこかから仕入れてきた”正しさ”を自分自身より優先させている点で自己肯定が弱く、

相手を尊重できるということは前提として自分自身を尊重できている(自分も尊重できないのに相手を尊重できない)ので、自己肯定が強い。

かくして同じ現象があっても自己肯定の低い人ほど喧嘩や紛争になり(あるいは自分に我慢や犠牲を強いて一時しのぎし、そのうち喧嘩する)、自己肯定の高い人ほど平和で人と共同して解決します。

隣人との喧嘩から世界規模の平和まで、大切なのは善悪二元論を超えること、各自がどんな自分も尊重することだと法的紛争と心理の世界に長くいて思います。

ラジオ出演

ラジオ日本「未来相談室」に今月出演させていただきます。

弁護士カウンセラーとして、

12月4日・11日・18日・25日、
23:15〜23:30の番組の中の小コーナーで各回1〜2分、弁護士業務とカウンセリングについて、現代社会とカウンセリングについてなど、ちょっとだけお話をさせていただいてます。

クラリネットもちょっとだけ演奏してますよ(1週目と4週目)。

放送後一週間は、radikoというWebサービスのタイムフリーにて何時でもどこからでも無料で聴いていただけるそうです。

よかったら聴いてくださいね^ ^

紛争あるある。許すか許さないか。

相手を許せたら自分も楽に、平和になりそうだし、人間的に善さげだし、なんやかんや現実的にもそっちの方が得そうだから「許さなきゃ、でも…」と悶々となるくらいなら、「38億回死ね馬鹿野郎」とか思ってたり味方にわめいてたりする方が結果的にそのうち相手がどうでもよくなっていい感じに納まったりする。

許せない自分をまず許そうという話で、自分のことを自分で許せている範囲の広さ・深さと、他人や世界を許せている範囲の広さ・深さは比例する。

許すのは神の御業、我々器の小さい人間はわめいてジタバタしてていいそんな時期もあるさくらいの構えの方が楽にすんなりいく。

武道で、息が長い方が勝つ、力んでいる奴より緩んでいる方が勝つ(巌流島の武蔵と小次郎的な)と言われるそうですが法的紛争においても力んでいるより緩んでいる人の方が上手くいきます。

冒頭の悶々とする人は、良くも悪くも理想の自分像や世界像にとらわれがちなタイプ(私も)。

悩みの構造と・・・。

どんな感情もまずは一旦受け止められる必要があります。

“あの人に、他の人に、世間に、受け入れられない、認められない”と思ってるときは、自分で自分を受け入れてない、認めていないのだと思ってまず間違いはありません。

悩みや問題があるとして

大人だから、〇歳だから
父親だから、母親だから
男だから
女だから
〇〇という立場だから
自分はこういう人間であるはずだから
自分はこういう人間では決してあってはならないから

として感情を感じないことにしていると、概ね事態はこじれていく一方になります。(ちなみに感情を抑えてるときは思考がぐるぐるよく廻ります。思考に逃げてると感情感じなくて済むから)

抑えてた自分の気持ちや感情をしっかり受け止めてもらうと、気持ちや思考がスッと切り替わって展開が大きく変わることは多いし、悩み自体消えたり、”問題”という捉え方自体が自然に消えたりします。

人に受け止めてもらってもいいし、自分で受け止めてもいいし。

そういう意味で、悩みというのは、どんな自分も愛したいからこそ起こる、まだ受け止めてない自分の部分を受け止めにいく機会や過程ともいえます。

自分に( カッコ )つけないで、自然体で今日も生きましょ。

問題社員の対処法とスネ

「この社員が大変なんですよねー。」

顧問契約をして相談役のように置いて下さる社長さんからはこんなお話も聴きます。

「それはひどいですね。」とひとしきり問題行動をきいて、まあ非常識だしそれは嫌がられるわという話なのですが、

「それで、まああくまで可能性なんですが、その行動の奥には認められたい、愛されたいみたいな気持ちがあって、さらにその奥には自分は認められないっていう欠乏感とか劣等感とかがあるのでそういう下手くそで迷惑な表現方法してるのかもしれませんねー。」

となんとなく感じたことをお伝えすると(一例)、

「ああ、なんかわかる気がします。あんなこと言ってたしなー。」

と言いながら怒ってた目が優しくなる社長が好きですわ。


“問題”社員(問題上司でもパートナーでも親でも子でも一緒)の”問題”行動に正面から対処するよりなぜそんなことをするのか、その奥の気持ちを見てあげる方が大事で、

私たちのたいがいの厄介な行動、態度は、「認めてほしい、愛されたい」の気持ちのくそ不器用な表現であることが多くて、その奥には「どうせ自分は認められない、愛されない」の思い込みがあったりします。要は拗ねてます。ええ、私もありますわ。

そんなところは人間何歳でもあるので(人間だもの)、その人が何歳だろうが立場があろうが、もう小さい子どもがそう拗ねてると思ってその気持ちに上手く対応してあげようとする方が対処しやすい上に有効だし、ハマれば一気に物分かり良く友好的、協力的になったりもします。

拗ねまくってるとみるみる現実がこじれていくので(拗ねてると人から嫌われるような行動を無意識にあえてとって”どうせ自分は認められない、愛されない”を確認し続けちゃいます)

相手の下手くそな表現方法の奥に拗ねや悲しみをみてそこを認めてあげられる対応ができて、自分の下手くそな表現方法の奥に昔作った拗ねとか悲しみとか寂しさを見つけて認めて優しく寄り添ってあげられることで、よりシンプルで素直で生きやすい人間関係と世界ができるかなあと思います。

講義 一人称と現実世界

母校慶應大学日吉キャンパスの人文科学分野の講義でゲスト講師としてお話しさせていただきました。

日吉キャンパス(1-2年生)若っかい!!

テーマは

“一人称と現実世界”

自分の内面との関わりや接し方次第で現実世界でもだいぶ好きに生きられるようになるので、こうして特に若い人相手にいろいろ感じてもらったり考えてもらえるための機会をいただけて本当に嬉しいです。

流れ用意してきたんだけど、双方向性でやったほうが面白そうだったので途中からそっち寄りに。その場の質問や感想を受けて双方向性でやる方がその場とメンバーだからこそのものが出てきて楽しいし好きだわ。

大学等の講師等としてのお呼び、引き続き募集中です。いつも素敵なご縁をたくさんつないでいただきありがとうございます

社会システムと自分

安富東大教授に関する記事。ああ、わかるなあ。

「あなたが苦しいのは社会システムが狂ってるからです」東大教授・安冨歩の発言になぜ共感が集まるのか

小中学校・高校生活に上手く適応できずしんどかった自分としては(自由がなさ過ぎて無理、通学ラッシュしんど過ぎ・大学は自由だから楽しい、いわゆるフルタイム会社員も私は無理)、

「不登校はまったく問題じゃない。『不登校が問題になる社会』のほうが問題なんです。」

は同感。
あるシステムに全員が適応できる、すべきだってのは無理筋な考え方だと思いますわ。

でも親はよかれと思って「社会システム」を押しつけてくるのよね。それしかないとも思ってるし、親自身も「我慢」してシステム適合してきてるから(大概さらにその親に押しつけられてる、で、その世代とかは戦争とかあるからシステム適合の強制力半端ない)、子どもだけが我慢せず自由にやるのは許せない(私が我慢してるんだからお前も我慢しろ)かつすごく怖い(未知の領域過ぎ)っつー心理も悪意なく無意識に働くしね。人間だもの。

で、我慢して適合していつしか自分を黙らせた大人は下の世代にこの仕組みを無意識に再生産しようとしがちである。

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そして人は、あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごし、知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるのだ(from 名もなき詩  Mr.Children 1996年 作詞 桜井和寿大先生)。
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ーーーーーーー(安富教授インタビュー記事から<リンク先>)
「自分自身になる」というのは、いわゆる「自分探し」のことではありません。「自分探し」なんてするだけムダです。だって、そもそも人は自分自身以外のものにはなれません。

でも多くの人は、想像力によって「自分じゃないもの」になりすましています。それをやめればいいだけなんですが、これがなかなかやめられないはずです。親に、そうなれと教え込まれているんです。

私の場合も「親の教え」にみごとにはまって京都大学へ入り、一流企業に就職しました。でも、京大に合格しても一流企業へ就職しても、全然うれしくなかったんです。

なぜうれしくなかったのかと言えば、そのときの私が「自分自身」ではなかったからです。「自分じゃないもの」がいくら成功したって、私がうれしいはずもありません。

ゲームの「ポケモン」ってあるでしょ。受験や就職で戦っていたのは、私じゃなくて私の「ポケモン(社会に適応するためにつくられた自分)」だったんです。成功しても、それは私ではなく私の「ポケモン」が成功しているだけなので、うれしくないんです。私だけでなく、ほとんどの人がそうなんです。子どもは親の「ポケモン」だし、戦っているのは、その子自身の「ポケモン」なんです。

不登校・ひきこもりを生きる、というのはたいへんな苦悩を伴いますが、じつは私が教えている東大生も、内面の苦悩は、ほとんど同じだと感じています。前者は「自分自身じゃないもの」になろうとしてなれずに苦しみ、後者はなりきって苦しんでいる。でも「自分自身じゃないもののフリ」をすることをやめないかぎり、自分の人生は始まりません。