紛争の根っこにあるもの

色んな種類の紛争や問題を法的・心理的の両方の観点から関わってきてますが、

あらゆる紛争の表面に出ている問題はあくまで表面で、

根っこにあるのは、「(母親から、父親から)自分は愛されてない、愛されてこなかった」と思ってること。

こう思ってるとその人の行動のほとんどが愛を勝ち取るための闘争、みたいになる。

紛争もそうだし、お金持ってる競争、成功競争、有名、人気競争、こんなに善いことしてるんだ競争、キラキラ競争w、SNSのいいね数競争、とかも闘争で、終わらないループ。

紛争もその一つの表現方法。非行に走るとか犯罪に走るとかも分かりやすくそう(愛されなかったことへの復讐、「愛されなかったから私はこんなにダメになってますよ、ほら後悔しろ、または気にしてくれ」・潜在意識的にですけどね)、ダメ異性ばっかり捕まえて不幸になり続けるとかも割とそう。

「自分は愛されてない」はたいがい「(母親から、父親から)愛されてない」という感覚なんだけど

これにはさらに奥があって、正確に言うと「(母親から、父親から)愛されなかったような自分を許せない、愛せない」

という感覚だと思う。

なので、お客さんには「自分を大切にしましょう、自分で自分を愛そう」という方向付けをおすすめすることが多いのですけど、

いきなり自分を大切にしよう、とか言っても大概すぐには難しいので、

まずは自分を労うこと。

「愛されてない」という想いを持ちながら、又はうすうす感じながらまあ長いこと我慢してがんばってきてるんですよ。

法律問題になるほど大きい形で出す人は、すっごく我慢してきたからこそ大きく出てる。

「長い間悲しみを我慢して、よくがんばってきたなあ。」

「もう我慢しなくていいよ」「泣いてもいいよ。」

とか、繰り返し、我慢してがんばってきた自分の部分を労う、悲しみに寄りそっていく。

悲しみを見ないようにして代償行為としての闘争と競争に走ると永遠に終わらないけど、悲しみにしっかり寄り添ってしっかりと感じていったらそのうち終わる。

悲しみは悪者じゃないですからね。
悲しみが終わったら代償行為としての愛の勝ち取り闘争ループが終えられて、好きなだけ休めたり、やりたいこと、好きなことやったり、好きな人との時間を楽しんだり、存分に、シンプルに、できる。

犯罪とかDVとかいじめとか不登校とか”問題行動”起こす人をガンガン責めるのは、泣いている幼児をひっぱたいてどこかに押し込めるようなもの。

解決するという観点から言ったら、根本解決はしないと思います。泣いている幼児いたら、「どうしたの?」と抱きしめたり、そういう方がよいでしょう?行為者に責任は取ってもらうとしても、ガンガンに責めても別に解決しない。

被害者を軽視しろとかそういう意味じゃなくて、被害者にも加害者にも寄り添える社会の方が優しい社会だなと思ってます。

自分の悲しみに寄り添う、人の悲しみに寄り添う。

潜在意識の奥の奥では皆自分で自分を愛しているから究極的には大丈夫なんだけど、

皆悲しみをもっているからこそ、悲しみをごまかすのではなく、もっと悲しみに寄り添える個人や社会になっていったら、いろんなことが大きく変わるだろうなと思います。