紛争に呑まれる人と呑まれない人

些細なケンカから裁判沙汰まで、紛争に呑まれていく人は善悪思考の強い人です。
相手が悪く、自分が正しい、その主張を認めさせようとする。

どっちが悪い、正しいの二元論。とはいえ人の数だけ正しさはあり、相手は相手なりに自分が正しいと思っているので正しさと正しさの対立、紛争になります。

善悪のジャッジがなければ構造が異なります。

自分と相手がいて、その間になんらかの問題(感情的なものも現象的なものも)がある。

それをいかに解決するかです。WINーWINの思考ができたり、相手を問題解決に共にあたっている人と見るので相手の協力も得やすい。この場合は上述の紛争と同じ問題があったにしても、紛争にならず、交渉だったり共同作業のようになります。自分には自分の考えや立場や感覚・感情があり、相手にもそれとは異なるそれがある、正しさが人の数だけあることを知っており、相手を尊重できる人にはこれができます。

善悪思考が強い、相手をジャッジするということは自分自身のこともジャッジしているということであり、どこかから仕入れてきた”正しさ”を自分自身より優先させている点で自己肯定が弱く、

相手を尊重できるということは前提として自分自身を尊重できている(自分も尊重できないのに相手を尊重できない)ので、自己肯定が強い。

かくして同じ現象があっても自己肯定の低い人ほど喧嘩や紛争になり(あるいは自分に我慢や犠牲を強いて一時しのぎし、そのうち喧嘩する)、自己肯定の高い人ほど平和で人と共同して解決します。

隣人との喧嘩から世界規模の平和まで、大切なのは善悪二元論を超えること、各自がどんな自分も尊重することだと法的紛争と心理の世界に長くいて思います。