鬼滅の争い論

争いがなぜ激化するかとみていくと、正しさが争いを生むということもそうだけども、より正確には自分が正しいと思うと正しさを通すためなら間違っている相手への配慮や尊重をしなくてよい、乱暴に扱ってもよいというような誤解が生じやすいことにあるのかなと。

そして、片方が無配慮や乱暴にいけば、「乱暴な相手にやり返すのはOK」(ドラマ流行ってる間は倍返しなんですかね)という修正がさらに入りやすいのでお互いに激化していくかと。

漫画とか映画の影響・刷り込みもありそう。少年漫画は特に基本的に正義が悪を暴力で殲滅して正解の平和の世界を実現します。

この点、現在映画爆ヒット中の鬼滅の刃は、暴力で鬼を殺しますけど、鬼の側の鬼となった事情、悲しみや苦しみ、どうして暴力に訴えるようになったかとそれへの癒し、許し、浄化がそれなりの比重をもって描かれます。

このアニメが爆発的ヒットをしているのは、結構後々響いてきそうな気がします。ちなみに作中の、呼吸法でパワーアップするという刷り込みも後々響いてくるかと。全集中の呼吸が何となく示唆していると思われる、今ここのエネルギーはあなどれません。

攻撃的な人、暴れている人は苦しんでいるからこそであり、少なくとも私が関わってきた刑事被告人や非行少年たち、またはそういうのでなくても相手に対して乱暴な態度・暴力的な感情が出る人(出ない人はいないけど)は、みんな苦しみからでした。

私もこれまで人を攻撃してしまったりしそうになるときは、苦しみからですし。わかりやすく外側に暴力として出ない人は、鬱や適応障害、胃潰瘍やある種の癌という形や、又はネット内外の悪口やバッシングというような形で出るのかもしれません。

誰かが攻撃的なときに、ああ苦しんでいるんだなと視点を切り替えると対処は変わります。暴力を甘んじて受けろとかでは全くない(それ自分への暴力)です。暴力自体はその人のためにも、させないことが大事。
”悪をみつけて排除するとよくなる”というのも大概刷り込みであり、悪者の誰かをただバッシングしたり排除するのみではなく、私達にそういう傾向があることを認識した上で、私達みんなが抱える苦しみそれ自体に意識を向けていくといろいろ社会も変わってくるのかなと思います。

さて、映画観に行く暇あるかなー。

誰かを責めることの損得論

紛争や喧嘩につきもの、な責めること。

道徳ではなく損得で考える。

誰かと揉めてる人で相手を責めている人はとにかく苦しそう、
他方、揉めていたとしても相手は相手として、それなら自分は自分でこう動くという人の方が楽そう、また、現実を具体的に動かしていくので望む方向に向かいやすい。
相手を責めだすと大概相手も責め返してくるので責め責め合戦になって解決に向かいにくく、むしろ事態が悪化しやすい。

責められると責め返したくなるのが人情なので、人を責める傾向にある人はつまり責められやすく、よく人と揉めてそういうことに時間とエネルギーを使えば、当然望む現実を創る方にエネルギーを使わないので不満が募りやすい、
で、それを誰か(身近な人でも社会でも陰謀組織とか何でもいいや)のせいにして責め出すので悪循環。誰かではなく自分を責めるのでも同じ。

何か気に入らないことがあったときに、誰かや自らを責めだすとただじめじめグダグダして動きにくい上にとにかく自分が不快。誰かを責めることは自分の中にある何らかの罪悪感や否定したい自己イメージを抑圧していることが多く、
そっちと向き合う方が話が早い。その自己否定や罪悪感が余計だから。責めているとなんとなくその内側の自分の不快感と向き合わなくて楽なような気もするが、実際は向き合わないので不快感がいつまでもじわじわ続く(本当は自分で気づいている)。身体的な健康についてだとさらにわかりやすいが、不快感は単に自分からの何かに気づいてほしいというサインである。

ということで、自分を含め誰かを責めることは自分にとって損。とりあえず気に入らない事態をまあそれも現実として一旦受け容れてそれならそれでどうするか(何もしないを含む)という姿勢の方が得。

ポイントは、何を受け容れないことにしているのか、という自分の中の否定ポイントを見つけてああ否定しているんだなと否定していることを受け容れていくのが第1歩かと思う。

世界はなんとなく投げたものが返ってくるので、責めがほしければ責めればいいし、望むものがあるならそれを自分から投げるのがいいかと。